【記事掲載のお知らせ】

先日取材した宮城県石巻市の記事が、ベースボールマガジン社ソフトテニスマガジンポータルサイトにて掲載されました。ぜひご覧ください。

あの日から8年「この街で暮らすことを、ソフトテニスをあきらめない」石巻とKEIスポーツの復興秘話【前編】 | ソフトテニスマガジン・ポータル

仙台市から電車で40分ほど。自然豊かな海の街・石巻は、悲しみの波を乗り越え穏やかさを取り戻している。宮城県石巻市にあるソフトテニスショップ『KEIスポーツ』は、ソフトテニス界初のショップとテニスコート、スクールが一体となった施設で、全国からお客さんが訪れる。 沖縄から飛行機、新幹線、タクシー、自転車で石巻へ KEIスポーツ代表取締役の石森慶哉さん(42歳)は、石巻で生まれ育った。地元・宮城の国体選手として活躍し、東日本大震災前は、東北福祉大学ソフトテニス部の監督を務めていた。 「2011年3月11日は、東北福祉大の合宿で沖縄にいました。震災のニュースを見て飛行機に飛び乗り大阪へ。新幹線で東京まで行って、タクシーを乗り継ぎ仙台へ。そこから自転車をこいで3時間。石巻には13日の朝に戻りました。街はぐちゃぐちゃで、何かしなくてはと思い、実家の店の材料でひたすら炊き出しをしました」 石森さんの実家は割烹・石もりという60年以上続く地元で愛される料亭だ。 「その年の6月に再オープンするまで、ヘドロをかき出す作業を毎日繰り返していました。店だけでなく道路も含めて。再オープンできる状態ではなかったと思うけど、震災で亡くなった方のお葬式や法事をしたいという方のために、何とかやるしかなかった」 石森さんのショップ(ウィナーテニスショップ石巻店)も流され、震災後は近所に残った酒蔵で営業していた。2012年9月撮影 写真◎井出秀人 震災後は部活もストップ。再開に奔走 『やるしかない』。石森さんからこの言葉を聞いたのは、一度や二度ではない。東北福祉大監督時代にソフトテニス・マガジンの取材で知り合ってから8年以上が経つが、この言葉を胸に、何度も地域の復興のために立ち上がっていた。この街で暮らすことをあきらめたくない、ソフトテニスをすることをあきらめたくない。自分がやらなければ誰がやるのか、という使命感と責任感に満ちていた。

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Yuri Motoyama

Human Nature -Yuri Motoyama-

「自分の目で見たものを、人に伝える仕事がしたい」 17歳で描いた夢。 文字、写真、ときどき動画。

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