大学部活を考える
母校である法政大学野球部に体罰問題が浮上している。真意は定かではないが、自身の経験を振り返りながら、大学での部活動の役割を考察してみたい。(※体罰そのものや有無を語る内容ではありません。)
私は大学時代、一部体育会のソフトテニス部に所属していた。類は友を呼ぶ、言葉の通りスポーツに取り組む他競技の友人も多かった。
野球部は一学年何十人も抱える大きな部だった。授業やゼミで会う機会も多く、学びを共にするメンバーを神宮球場で応援するのは、とても楽しみだった。ちなみに、2009年の全日本大学野球選手権大会で、法政は14年ぶり8回目の優勝を果たした。私はその時、神宮球場のスタンドから大きな声援を送っていた。学生時代の心に残る思い出の一つである。
野球部員の多くは甲子園に出場した経験や地方大会での活躍が目立った選手たちだ。大学にスポーツ推薦で入学するとなると、相当な実績と躍動するパフォーマンスでスカウトの目に止まらなければならない。日本の野球人口を考えれば、狭き門であるということは容易に予想が付く。(※日本高等学校野球連盟の統計によると平成30年の高校野球部員数は153,184人。)
十人十色の個性派集団だったが、親元を離れ寮生活を送りながら、野球に真摯に向かう姿は学内の中でも一際目立つ存在だった。全国から選りすぐりの選手が集まり、伝統のある部に所属する彼らは時にうやらましくも見えた。
ところで、私自身が所属していたソフトテニス女子部はどうだったかというと、部の推薦枠が無く一般入学のため、部員を集めることも一苦労。同期は一人。他の学年も一人か二人というのが普通だった。
団体戦に出場できる人数ぎりぎりの時もあったが、それでも、自分たちで工夫し上達を目指す皆の努力は素晴らしかったと思う。
大学の部活動は中学や高校までのように、先生やコーチがみっちりと指導してくれるものでは無かった。監督自身が学校に常勤していないこともあるため、休日がメインの練習となった。学生も授業が終わる時間が人によって異なるため、平日は集まれた部員のみで練習を行った。(ここだけの話、私自身は幽霊部員と化した時期もあった…そのあたりの話はまた後日。)
私は以前、ベースボールマガジン社が発刊するソフトテニスマガジンで、大学部活を紹介するコーナーを連載していたのだが、早稲田、慶応、日体大など強豪校の話しを聞いても、さほど大枠は変わらなかった。
監督から出るワードは共通して
「選手の自主性に任せている」ということだった。
私が大学の部活動に励む上で、最も大切だと感じたことは、この「自主性」だった。
授業では、学びたいと思う分野を選択するのか、もしくは単位が簡単に取れるものだから選択するのか。
部活動では、自らの目標達成のために日々心と身体を鍛錬するのか、就職に有利に働くこともあるから所属し、なんとなく毎日を過ごすのか。
大学はとても自由だった。
どちらを選択しても誰も怒る人はいなかった。
幼少期からスポーツに取り組み、熱心な親、熱心な指導者に学んでいると大学生になり急に競技力が止まるプレーヤーがいる。それは、自分で自分を鍛錬させる方法を知らない場合だ。
そして、当時の私は、それまで学んで来なかった自主性を学んでいる瞬間だとは気付けなかった。
自由さとは、時に不自由で、恵まれた環境は、環境が変わった瞬間に厳しさに変わることもある。
大学での学びのスタートは、まず自分のことをよく知ることだろうと思う。何が好きか、学びたいか、将来どんな仕事をしたいか、どんな大人になりたいか。そして、何のために部活動をするのか。
スポーツや部活は、自分を知るための1つのツールであり、自らの課題に取り組んだことを証明できる場所でもある。
大学部活は、勝負の結果だけでは語れない、人生をより豊かにする自主性が備わる役割を持っている、と私は思う。
自らの大学生活を反省しながら、
母校の後輩たちにエールを。
2019.1.31 Yuri Motoyama
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